カクカクの北海道Uターン週記

「元」日本語教師 /「元」旧司法試験受験生によるカクカクの北海道Uターン週記

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 というわけで、去る3日に親父が亡くなった。そこからの一連の動きをまとめておこうと思う。
 
 
 *3日
 日曜の朝、私はPCに向かってポイ活などしていた。と、姉貴から、親父の容体が急変した、今病院に向かっている旨のLINEが。で、姉貴(とお袋)が病室に着いてすぐ亡くなったと(930)。
 そこからしばらくきょうだいのグループLINEでやりとりを。私が最初に送ったLINEは<ありがとう。さてどうしますか>。

 
 

 
 姉貴と電話で話して、大まかなスケジュールを確認。暦の関係やらもあってか、6水が通夜(通夜まで親父は実家に安置)、7木が葬儀とのこと(@やわらぎ斎場月寒)。
 私は、5火の昼に実家にいればとりあえずは事足りるよう(妻は1日遅れの6水に現地で合流)。よって、それまでは通常の動きを取ろうと決めた。この土日は、たまたま珍しく妻が里帰りしない週末で助かった。2人で札幌行の準備をした。そういえば、この日は妹(東京在住)の誕生日だった。
 
 *4月
 通常どおりに出勤。たまたま中学校が前日の参観日の振替休日で、塾の授業が早く終わる日だったため、授業を済ませた後は早退した。しばらくお休みすることになるので、もろもろの引継ぎも。
 
 *5火
 早朝に自宅を出、いつものルートで札幌へと走る。いい具合に暖かいタイミングで、雪道ドライブの緊張感は薄かった。写真はトイレ休憩をとった道の駅とうや湖

 
 

 
 昼前に実家に着き、“ご遺体” となった親父と対面し、線香を上げた。お袋の認知症の発作性攻撃?にどう対応するか悩ましかったが、可能な限り平和・平穏に。

 夜は姪っ子(姉貴の子)が線香を上げに来た。ちょうど大学進学が決まった(@京都)ということで話が弾んだ。その夜は久しぶりに実家に泊まった。
 
 *6水
 昼前に妻と妹が合流。千歳に降りた妹を妻が拾ってきたというわけ。そのすぐ後で斎場の方が打合せに。親父を搬出する(通夜に向かう)のは1530ごろで、それまでは時間があるということで、昼メシを食いにそば屋へ。美味くて安くて盛りがよかった。写真は妹発注の天ざる。

 
 

 
 実家に戻って喪服などに着替えた。私は地味なスーツを用意していたが、実家に親父の礼服があったので、形見分けということでそれをもらい受け、着用した*1。葬儀が立て込んでいたようで、予定よりも1時間半ほど遅れた1700ごろ親父を搬出、われわれも斎場へ。
 斎場に着くとすぐに湯灌。その間に参列者が三々五々集まってきた。極力お金を掛けない、ほぼ家族葬に近い形だったが、それでも十数人になった。おじさん・おばさん・いとこたち。何年ぶりだろう。
 1900から通夜。ウチは浄土真宗だったよう。親鸞悪人正機説(最近流行りの歎異鈔「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ですね)のアレである。悪人こそ往生をとげるというなら、親父は資格十分だ(笑)とシニカルに思ったりしながらお経を聞いていた。
 お経の後、親族代表で話しをすることになった。前回のエントリーで書いた文章はそこで話した内容である。
 
 話していて、不覚にも、泣いた。いや、哭いた。
 
 悲しいからじゃない、これは悔し泣きなのだ、などと思ったりもしていたが、辛く苦しく絶望に支配された少年時代に抱え込み、ずっと封印していた(妻にはちょくちょく漏らしたりしてるけど)心の叫びがあのとき噴出したのではないかと今になれば思う。
 
 通夜の後、皆で食事をとった。私も含め、親戚一同誰も酒を飲まない。アルコールのない食事会は居心地がよかった。2200ごろには、そろそろ休むかという空気になった。健全そのものの夜であった。斎場にはシャワールームもあり、ホテルさながらの洋室に泊まった。この日は妻の誕生日であった。落ち着かない中での誕生日。早めに誕プレを用意しておいてよかった*2
 
 *7木
 早くから活動開始。昨夜の食事会と同じような空気感の中、皆で朝食をとってから葬儀。お経の後、棺に花を手向けて最後のお別れという段になって、大泣きに泣いた叔母が過呼吸になって倒れてしまった。夫としても父親としても失格だった親父だが、もしかしたらいい兄だったのかもしれないな。

 
 その後、火葬場へ(叔母は車椅子で)。ここも混雑しているようで、係の人は明らかに急いでおり、ほとんど “流れ作業” であった(仕方ないですね)。2時間ほどかかるということで、その間は会食。ここでももちろんノンアルコールで。
 その後、親父の骨を拾って骨壺に収めた後、斎場に戻って再びお経を。初七日用だ、四十九日用だといくつかお経を聞いて、お終い。骨壺とともに実家に戻る。少し遅れて斎場の方がいらっしゃり、祭壇?を設えてくれた(遺影とお骨を置いて線香を上げられるようにするわけですね)。その後、帰京する妹を駅まで送りがてら実家を辞した。今夜の泊まりは妻の実家で。
 
 この後、翌 8金 にミロトラ2台でとことこと自宅に帰り → 9土 は自宅で過ごし → 10日 に再び実家へ → 11月 に自宅に、という動きをとったのでした。
 
 
 前にも書いた(こちら)が、生きることは送ること である。まだ死ねません。

 

 *サヨナラ親父。あなたの息子は(卓れた男になれたかはともかく)いま幸せです

 

 

 

*1:9月中旬からのダイエットがなければウエストが入らなかったかもしれない。ダイエットを思い立ったのは 虫の報せ だったのかな(笑)

*2:これも 虫の報せ だったか?(笑)