カクカクの北海道Uターン週記

「元」日本語教師 /「元」旧司法試験受験生によるカクカクの北海道Uターン週記

ゆとり

 前回も書いたように、今季は本当に冬らしい冬であった(敢えて過去形)が、啓蟄も過ぎ、流石に少しばかり春の鼓動を感じるようになった。朝晩はまだ寒いし道路も凍るが、日中は(天気がよければ)ぽかぽかである。
 
 「春は夜汽車の窓から」という話があった(懐かしい!)が、私の場合は仕事柄、「春は高校の受験から」である(語呂が合わないが)。公立高校の入試(今年はこの水・木曜日だった)が終わると、やはりそれまでの緊張が少し和らぎ、同時に中3生とはお別れとなる(春に別れはつきものである)。特に今年は、目をかけていた大変努力家の中3生がいたので、もう彼女に勉強を教える機会がないかと思うと残念である。春休みには塾に顔を出すと言っていたので、チャンスがあれば、「ゆとり」で削られてしまった部分など補習してやろうかとは思っているが。
 
 
 それにしても「ゆとり教育」は何だったのだろう。導入を決定したのは秀才ぞろいのエリートたちなわけで、何故こういうおバカな路線に走ってしまったのか理解に苦しむところである。公務員も土曜日を休日にしなければならなかったから、というのが大きいのであろうが、もう少しマシな形でそれを実現できなかったものだろうか。
 
 「ゆとり」は、自分たちの子弟のライバルを減らすための策だった、という説もある。つまり、こうだ。
 
 <公立校をどっぷり「ゆとり」に浸ける>
           ↓
 <才能のある子も埋もれる>
           ↓
 <その間、自分の子どもは優秀な私立に入れてガシガシ鍛える>
           ↓
 <一般人とエリートの差は悲しいほどに広がる>  という流れである。 
 
 
 塾の子が通う中学校では、今年度、3連休のない月がひと月しかない(1年=12ヵ月のうち、11ヵ月は必ずどこかに3連休がある)。もちろん週休1日という週は存在しない(必ず連休がある)。定期テストも年に3回しかなく(2学期も中間試験がない)、そのテストも、教科によっては出される問題を予めプリントで教えてくれる過保護ぶりである(問題はプリントそのままである。ちょっとひねったり的なことはしない。100%そのまんま、であり、100点のうちの15点分ぐらいにはなる)。それでも出来ないわが教え子たち、なわけだが…。
 
 ゆとりにゆとった中学時代を経、高校に進学するわけだが、その高校も、(上の方はともかく)下の方はスゴイことになっている。札幌で最も偏差値の低い公立高校は、通信簿に「3」がなくてもラクラク入れる(オール「1」だと難しいかもしれないが、オール「2」ならお釣りが来る)。北海道は、以前ほどではないにせよ未だ公立優位。私立の底辺は推して知るべしである(よく、高校生になって分数もできない、などと嘆きの声が上がるが、分数などとんでもなく、九九ですら怪しい)。
 
 ゆとりがあった分、彼らは死に時間をすごしただけである。詰込みが悪だというなら、実学、例えば就農体験でもさせるべきだった。せめて体育の時間を増やし、基礎体力作りに当てられなかったのか。体格もよく、食い物にも恵まれているはずの彼らの運動能力が、30年前の子どもよりも低いというのはどういうことか。
 
 学校も学校なら親も親である。「ゆとり」を幸いに、子どもを親の都合で振り回す。「夏休みにはディズニーランド、冬休みには沖縄、春休みにはバリ島」という中2生がいる。また、これとは別に、「学校を休んでディズニーランド」というのが2人いた(私の行っている教室は、塾生全員合わせても3〜40人程度である)。何で学校が休みのときに行かないの?と1人に訊いたが、平日でないと混むから、ということであった。
 
 よく報道で、「給食費を払わない親」などが話題になるが、上に書いた親といい、こういう親に育てられる子どもは可哀想である。私の目には、彼らの哀しい将来しか見えない。
 
 
 いずれにしても、この何年かで、日本は大きく失われてしまった。日本人として誠に遺憾である。ようやく「ゆとり」が見直されるが、遅きに失したといわざるを得ない(「ゆとり」は間違ってました、と中教審が「反省」の態度を明確にしたことが辛うじての救いである)。
 
 
 「ゆとり」については、一本論文でも書き上げておきたいところなのであるが、ま、ウチには子どももいないし時間もないので、やめときます。